『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか? (岩波ブックレット 1080)』
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ISBN:4002710807
「ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える。
■目次
はじめに
第一章 ナチズムとは?
第二章 ヒトラーはいかにして権力を握ったのか?
第三章 ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?
第四章 経済回復はナチスのおかげ?
第五章 ナチスは労働者の味方だったのか?
第六章 手厚い家族支援?
第七章 先進的な環境保護政策?
第八章 健康帝国ナチス?
おわりに
ブックガイド
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読書抜き書きsansho.icon
歴史的事実をめぐるこうした問題を別の観点から整理すると、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討することができるかもしれない。
歴史学は何らかの形で事実性に立脚しなければいけない。それに反するものは主張の根拠とすることはできない。この点にはほとんどの人が同意するだろう。ここで「事実」ではなく「事実性」という言葉を使ったのは、たとえば一九三三年一月三〇日にヒトラーが首相に任命されたという揺るぎない「事実」だけでなく、先ほど述べたような、当時の人びとがどう思っていたかという「心性」のような問題も歴史学は扱うからだ。その場合、日記でも手紙でも、 裁判記録でも聞き取り調査でも、とにかく検証可能な何らかの形の根拠にもとづいていなければならない。もちろん過去のすべてが記録に残っているわけではないから、推測を迫られることもあるが、そうであっても、すでに明らかになっている事実性に矛盾するような推測は許されない。そういう意味で、本書でも後で説明するように、「ヒトラーはアウトバーン建設によって経済を回復させた」という主張は、端的に言って事実に即していないし、「ナチスの制服が格好いいのはヒューゴ・ボスがデザインしたからだ」というしばしば見られる主張も、根拠のあるものと見なすことはできない。ボスが制服を卸していたのは事実だが、デザインしていたという事実は確認されていないからだ(ボスがファッション・ブランドになったのは戦後のことで、ナチ時代は制服を卸す縫製工場の一つにすぎなかった)。p.6
歴史学においておそらくもっとも重要な、しかし社会においてしばしば非常に軽視されがちな点が、二番目の〈解釈〉の層、歴史研究が積み重ねてきた膨大な知見である。
たとえばナチスの家族政策を例に考えてみよう。ナチ体制下では将来の兵士や労働力を産み育てることが強くもとめられ、出産に対して様々な報奨制度が存在した。 結婚に際しては貸付金が与えられ、子どもを一人産むごとに返済額が四分の一ずつ免除された(つまり四人産めば全額免除となった)。全国母親奉仕団が母親学校を開催し、主婦・母親としての訓練を施した。 全国二万五〇〇〇ヵ所の母親相談所では、母親への助言や情報に加え、乳児の下着や子ども用ベッド、食料品などの現物支給も行われ、一〇〇〇万人以上の母親がそうした支援を受けた。 会社内には幼稚園が設けられ、ケースワーカーが生活問題全般の相談に乗った。親衛隊の「生命の泉」では未婚の母への支援も行われた。これだけ〈事実〉を列挙すると、「やっぱりナチスは良いこともしたではないか」と感じる人が多く出てきても不思議ではない。現在の政府によるお粗末な子育て支援よりもはるかに充実しているではないかと、羨ましく思う人もいるかもしれない。 事実、「女性に様々な配慮をしていたナチス・ドイツは、子育て大国だったのだ」と主張する本も出版されている。だが歴史研究が取り組んできたのは、こうした家族政策がどのような文脈で、どんな政策とセットで行われたのかという問題だ。pp.6-7
ナチスの家族政策に関して忘れてならないのは、こうした支援策の対象となったのが、ナチ党にとって政治的に信用でき、 ② 「人種的」に問題がなく、 ③ 「遺伝的に健康」で、⑨「反社会的」でもない人びとだけだったという点である。社会主義者や共産主義者などの政治的敵対者やユダヤ人、障害者や「反社会的分子」とされた人びとは、そこから排除されていた。しかもナチ体制下では、地方保健機関の発行する「婚姻健康証明書」で遺伝的健康が証明できなければ結婚できなかったし、子どもを産まない「繁殖拒否者」には罰金が科されていた。さらに障害者に対しては、まずは強制断種(四〇万人)、さらには「安楽死」(三〇万人)という名の殺害が行われた。 同性愛者も迫害を受け、五万人に有罪判決が下されている。そのうち強制収容所に送られたのが五〇〇〇~一万五〇〇〇人、死者は三〇〇〇人程度とされる。ナチスの家族政策は、こうした人種主義的な「民族共同体」を構築するための手段の一つだったのだ。さらに言えば、結婚資金貸付制度も当初は女性が仕事を辞めることを給付の前提としていた。 ナチスは少なくとも政権初期段階では「反女性解放」を掲げる体制でもあった。「目的や文脈などはどうでもいい、良いものは良いのだ」と感じる人も、ひょっとしたらいるかもしれない。たしかに三つ目の層である〈意見〉は最終的には個人的なものであるから、そのような考えをもつこと自体を止めることはできない。ただしそこでぜひとも知っておいてもらいたいのが、ドイツ語の「Tunnelblick」という言葉である。そのまま日本語に訳すと、「トンネル視線」とでもなるだろうか。 自分にとって都合の良いところ(この場合は「ナチスの良いところ」)だけを照らし出し、それ以外が見えなくなっている状態を指す。〈解釈〉という層が非常に重要である理由が、 まさにこの点にある。 歴史研究の蓄積を無視して、〈事実〉のレベルから〈意見〉の層へと飛躍してしまうと、「全体像」や文脈が見えないまま、個別の事象について誤った判断を下す結果となることが多いのである。そうした目的や文脈を含めてもなお「良いこと」と強弁することは可能かもしれないが、現代社会においてそれが共通了解となることはおそらくないだろう。これは一般読者でも研究者でも状況は同じである。 一次史料ばかり収集しても関連する研究文献をきちんと読み込んでいなければ、研究者ですら思い違いを免れない。歴史学で卒業論文を執筆する学生が「研究史が何よりも大事だ」と耳にタコができるほど聞かされるのも、基本的には同じ理由による。pp.7-8
参考
新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち(田野 大輔) | 現代新書 | 講談社(1/5)